読書

2014年1月15日 (水)

文学賞の予想は楽し

日本一本を読むパソコンサポートと標榜してはいるのだが、本当かどうか自信はない。

 

年間千冊ちょっとというのは、理系では多いが、業界人の方や文藝ファンの方々から見ればなんてことはない。ネットで高名な批評家の方は年間五千冊読んでいるというし。

 

それに、多く読めば賢くなるわけではない。自分があまりクレバーな感じがしないことからも明らかですな、これ。あはは、自分で言うんだから間違いない。無知の知という言葉もあるわけで、自分の知性に謙虚になれたとこは一つの到達点であることに違いはない。一方、最近の「人工知能」風の成果は、大量のデータから創られているという。ロジックではなく、統計的な処理、というのが皮肉だ。そのアナロジーで、読書量は馬鹿にできない、ということも嘘ではなかろう。さらに敷衍して、詰め込み教育も、やっぱり結構大事だったのではないか、という反省。

 

さて、読書の話だった。で、今は文学賞のシーズン。明日は、第150回芥川賞・直木賞の発表日だ。毎回発表される候補作は、新たな作品との出会いをもたらしてくれる。そして、どの作品が選ばれるか予想すること、これはとてもエキサイティングな盆と正月の風物詩となりますよ。あなたもご一緒に、どうですか?

 

芥川賞の場合、純文学であって、大衆に媚びる必要は無い。理解できる読者が少なかろうとも、芸術として新しいか、あるいは、これまでに無いほど完成度が高いか。そういう尖がったところが求められているのだろうなと素人ながら理解している。私が理解できなくても、面白くなくても、そんなことはどうでもいい、ってこと。

それでも、日頃文芸誌など手に取ることのない私が、選び抜かれた作品、リーディングエッジを知ることができる作品と出会える場。いくら貧乏暇無しとはいえ片手ほどの数の作なら読めるわけです。そういう稀有な学びの場、出会いの機会を提供してくれる芥川賞の存在には、とても感謝しております。

こう断ったうえで、さて、今回第150回の候補作は、どうなのでしょう。びっくりするような作品があったのでしょうか。素人の言うことですからご容赦いただきたい。技巧をこらす必然性があっての技巧というより、技巧そのものが目的化してないかなぁ。実験的な作品というのならアリでしょうけど、コンテンツが「普通」なのにコンテナばかりが派手というのもイヤミですわな。

コンテンツに関して、「さよなら、オレンジ」の説得力はさすがと言うべきなのでしょう。私個人の予想としては、該当作なし、もしくは、この作品の単独受賞、ということにさせていただきます。

さて、大衆文学の賞である直木賞の場合、アマチュア読者の視点というのもそれなりに意味をもつ。業界やら文壇やらの大人の事情というのも垣間見えることがあれば、それは激烈な批判の対象となってしかると考えます。

千早茜「あとかた」は、この場で紹介してくれなければ読む機会はなかったでしょう。まともに見える家庭のイカレた内部仕様と、エキセントリックな成り立ちのカップルのまっとうな心模様、その対比。面白い作品に出会うことができました。感謝です。柚木さんの「伊藤くん」は「ランチのあっこちゃん」であれば納得ではありました。それでも、今回の直木賞の候補作はなかなか読み応えがあった。ネットでの皆様の下馬評に反しますが、私個人として、「とっぴんぱらりの風太郎」を受賞作と予想し、選考委員の皆様の蛮勇に期待させていただくことにいたします。

もちろん、これまでの直木賞の傾向と対策を考えれば、本命は「恋歌」であり、対抗「王になろうとした男」でしょう。でも、かつて芥川賞では「道化師の蝶」が選ばれるという、まさかの奇跡も起こった。この事実を忘れることはできません。

読者の共感を得てゆく。大衆文学では最も大事なことでしょう。かつて、エロスはその最強のエッセンスでした。今はどうでしょう。価値観は多様化しています。快楽に振り回される人生よりも、使命感とか、達成感とか、そちらの方向に価値を感じる方も少なくありますまい。忍びの時代に、忍としての人生を全うする。虚構です、そりゃフィクションの世界の話ですが、私のミラーニューロンは強烈に反応するのです。貴兄もそう感じたのではありませんか。

今、学校教育の世界では、鎌倉幕府が「いいくにつくろう」の1192年という年号そのものを重視するわけでもなくなってきているといいます。そもそもこの年号はアバウトなものだったらしい。となれば、史実に忠実に作品を作ることそのものの価値というのは、どうなのでしょう。史実(とされるもの)がそもそもアバウトなものであるならば、固いことを言わずに肉付けして味付けして納得し共感できる面白い物語にしたほうがいいと考えることもできる。和田竜「村上海賊の娘」もその方向にあって、歴史に対する柔軟な立ち位置は風太郎と似たものを感じます。ファンタジーはあかん、という先生がたが多いことも存じ上げておりますが、大衆小説の有望なフロンティアがこちらの方向に大きく開けているのではないかと私は考えるのです。

2013年7月16日 (火)

猫にとっても熱い季節、いろいろな意味で

吾輩は猫を名乗るパソコンサポートである。

陳腐にして笑止。ただ、「吾輩は猫である」という商標だというのであれば、それはそれで結構面白い。著作権とか商標法上の問題で面倒なことになりそうなので、踏み出す気はない。

日本一本を読む、もとい、パソコンサポートとして日本一本を読む、こう標榜して長い。本を読み過ぎて妄想が過ぎることはないのか。空から人間型ロボットが降ってくる。夕立のようにバラバラと大量に降ってくる。そんな世界を平然と受け入れて登場人物に一瞬でも感情移入できるメンタリティは、すでに多数派のものではないのかもしれない。

直木賞の発表が明日に迫ったが、ノミネート作を読むことで新しい作家さんとの出会いを楽しみにしている小生にとって、宮内悠介「ヨハネスブルグの天使たち」、さきほどの墜落するロボットの話であるが、これ以外はとっくの昔に読んでましたという状況は、ちょっと残念ではある。

受賞作は、湊かなえ「望郷」と予想。これ、決して自分に「刺さって」きたわけではない。おそらく女性の感性に共鳴する類のテーマだ。だけどこれまで素晴らしい作品群を世に問い続けてこられた湊さんのことゆえ。

もし小生が審査員だったら、後先のことは考えず、恩田陸「夜の底は柔らかな幻」をイチ押しにする。この作品は、しかし、結末の完成度に懸念がある。いつものことかもしれないが。そこはそういう作風として肯定的に論じきりたい。様式としての完成度云々よりコンテンツの魅力だと。そして形勢不利と見て豹変す。対案として、原田マハ「ジヴェルニーの食卓」を推す。キュレーターの原田さんならでは。絵を知らなくても絵の世界の魅力が伝わってくるような不思議。

芥川賞は該当作無しを予想。藤野可織「爪と目」の、幼い娘にすべてを語らせるスタイルが面白い。ただ、テーマが読者を選びます。オッサンの荒れた胃だと胸やけ気味か。さて、鶴川健吉「すなまわり」はとても面白い。ぜひ続きを書いてほしい。実際に角界や行司を経験した人でないと書けないんじゃないかというような興味深いネタが満載。この内容ならむしろ直木賞向き。

2013年2月 6日 (水)

Windows8とかけて恩田陸ととく

Windows8の仕様については評価が分かれる、そう言っておいて間違いないと思う。

個人的には、タブレットへ新市場への野心と既存ユーザへの配慮という、矛盾しがちな制約になんとか落とし所を見つけようという、開発者各位の苦悩、アンビバレンツ、そして誠意も伝わってくる。面白い、そういう曖昧なコメントになりがちだが、やはり、既存のWindowsユーザにとって使いにくいのは否定できない。

風呂敷を拡げたまではいいが、うまくまとめるのが難しい。収拾がつかないまま、時間切れで世に出すことに。詰めがよろしくない、というのだろうか。おしい。実に、惜しい。広島県をマーケする有吉弘之さんを思い出すが、本当に、おしい。こういう事例、ソフトや工業製品のみならず、人間という不完全な存在が創造するあまたのもの、広い領域で普遍的にみられるもので、それは芸術の世界でも例外ではない、ということか。

昨晩読んだ恩田陸さんの新刊「夜の底は柔らかな幻」が、これまた、実に、おしい。上下巻にわたる約700頁のうち、600頁までは、まさに最高傑作。恩田陸ワールドの白眉。それがなんで、あんな結末になるかね。2009年に連載が完了し、一度単行本になりかけてキャンセルされ、4年後の今になって出てくるあたり、あ、これは時間切れ、見切り発車だったかな、そう邪推されてもしかたがない。

 

恩田陸さんのスタイルといばそれまでなのだろうが、世界観を作るところ、丁寧にその風呂敷包みをひとつ、また一つと開いてゆく緊張感、わくわく感は、他の人には決して作り出すことができない独特のもの。ここに惚れたファンは、私も含め、次の作品を今か今かと待っている。で、毎回、結末で違和感が残る。この違和感がいい、そういう方もおられるのかもしれない。が、私は、おしい、そう思う。結末だけ、再検討をお願いしたい。あるいは、ここで一度読者に、どういう結末がありえるのか、訊いてみてほしい。世界観を膨らませるのは苦手だけど、収束させるのは任せてくれ、そういう読者さん(あるいは明日の作家さん)もおられるかもしれない。

 

あるいは、ここの部分だけ、他の書き手さんのお知恵拝借とか。戦いは続く、みたいな結末無しの状態で放り出して、次の世代の書き手さんに「続き」を書くことを許す、なんてことも不可能でもなかろう。例えば、終盤で少年が洞窟を抜ける、そのとき生まれるパラレルワールド、「もう一つの夜の底」。千と千尋や、1Q84とか、彷彿とさせますな。そうこうしているうちに途鎖国の戦いが鎖神国まで飛び火して、なんてシーケル、超アマチュアな私も書いてみたくなってくる。

 

続・山椒魚、そういう作品を大昔に国語の授業で書かされました、そういえば。

 

Windows8の場合は、誰がやっても100点満点にはならないミッションだったと考えるべきで、その開発責任者が退社してハーバード大学の教授になった、という話が聞こえてくるにつけ、やっぱり、限られた時間で一人の人がまとめ上げるのが難しい問題というのがあって、さらに時間をかけて、複数の設計思想を取りこんで熟成することが必要な場合のあること、WindowsVistaとWindows7の関係を振り返り、感じるところである。

 

今いちどVistaを使ってみて、あれ、そんなに悪くないじゃん。そう感じる。WindowsVistaのいいところは、Windows7として開花したのである。Windows8も、今はアレな感じでも、次期Windowsと噂されるWindowsBlueとして完成され、ふりかえればWindows8も結構いいじゃん、という話になることを期待してやまない。

2013年1月15日 (火)

文学賞はノミネートされることに価値がある

日本一の読書量のパソコンサポートと自称しております。

 

言うまでもなく、読書量が日本一の人というわけではなくて、概して本なんてあんまり読まないエンジニアのそのまた少々オタク系の人が少なからずのパソコン屋という超ニッチにおいては、ということにすぎません。悪しからず。

ご存じのように、芥川賞と直木賞の候補作がこの1/6夜に発表され、受賞作が明日16日夕刻に明らかとなります。その10日間で候補作は全部読んでるんだろうねと、思われることでしょう。前回まではそうだったかもしれません。が、今回は雲行きが怪しい。まだ、芥川賞が5作中4作、直木賞が6作中3作しか読めてない。それでも、たとえ見切り発車となろうとも、受賞作を予測する楽しみを放棄する気はないというのだから、図々しいにもほどがあるね。

結論から申しましょう。

 

直木賞は、有川浩「空飛ぶ広報室」でしょうね。私が推すのは西加奈子「ふくわらい」ですが。そして芥川賞は、受賞作無しと予想します。いや、黒田夏子「abさんご」は掲載誌の早稲田文学5号が本屋にも図書館にも無くて調達を断念したので、この作品が受賞するのかもしれないと申すべきでしょうか。

 

わたくし、文学賞はお祭りだと思います。受賞はすごいけど、受賞作が一番優れているということだとは思わない。受賞しないことに何らの懸念も感じない。受賞作だけ読むつもりもさらさらない。候補作は全部読むから、必然的に受賞作は読みますが。むしろ価値はノミネートの段階にあると考える。多くの出版物のなかから特に注目すべき作品をリストアップしてくれる。新しい可能性との出会いの場を作ってくれる。これは本当にありがたい。そしてその「ありがたい」と思っているのは読者側だけではない。前々回の直木賞受賞者の葉室さんがコメントされていたが、候補作となると売り上げが急増する。で、受賞してしまうと、その売り上げアップのチャンスが無くなる。だから、キツイ、という。候補作になっては落選するのを何度も繰り返したほうが、美味しい、ということだ。

 

そして正直なところ、今シーズンの大衆文学の最高傑作は横山秀夫「64」だと、私は思っておりますし、同じ思いを持たれておられる方は少なくないでしょう。すでに売れに売れてる64だから、今後国内のいかなる賞を受賞したところで、発行部数がそれほど増えるものでもない。この作品と作家さんに関しては、文学賞受賞のメリットなど皆無なのでしょう。

 

さて、前置きが長くなりました。直木賞候補作6作のうち、現在までに読み終えたのは、有川浩「空飛ぶ広報室」、伊東潤「城を蹴った男」、西加奈子「ふくわらい」の3作だけ。朝井リョウ「何者」、志川節子「春はそこまで」、安部龍太郎「等伯」の3作4冊は机の上に置かれたまま。この状況で、いわゆる読書感想文以上の意見を述べるのも無責任極まりないのですがね。「城を蹴った男」は独立した短編を集成したもので、それぞれの作ではニヤリとさせられるのだが、全体としてはどうかといえば、ジャブを6回食った、なんてことになってしまっていると言えなくもない。かたや、図書館戦争とか、空の中とか、ベタベタスイーツな恋愛模様という独特のスタイルを確立しながらも、ファンタジーという直木賞の範疇外とされてきた内容を得意とする有川浩の今回候補作は、ファンタジー色皆無。優等生的な作品。受賞の障害は何もない。実売部数こそ美徳の業界です。

 

さて、芥川賞の候補5作のうち、黒田夏子「abさんご」は早稲田文学という入手困難な雑誌に掲載されているために、19日に文芸春秋社から出版される単行本を待つことにした。

 

北野道夫「関東平野」は、凡庸でないとはいえないコンテンツを、いささか無機質な形式化されたコンテナに入れ込んだことで、読み物として結構面白くなっている、不思議な作品。ドライとウェットの対比は面白くないとはいえないが、それが東西の地域差と種明かしされた瞬間に興ざめするようなところも無いとはいえない、かもしれないね。

高尾長良「肉骨茶」は、拒食症と過食症のせめぎあい。エロス大好きの文壇にあって、人間のもうひとつの基本的欲求、食欲、そのアブノーマルな姿を描いたところ、とても面白い。作者はまだ学生さん、最年少ノミネートで、さらに新潮新人賞も受賞ということで、最有力候補であることは間違いない。

舞城王太郎「美味しいシャワーヘッド」は、優柔不断な男というのがテーマだとは思うのだが、脱線多数で面白くなっているようなところもあって、シャワーヘッドの禍々しきメタファーがイマイチ力を持ってこない。アブノーマル系のエロスな展開も視野に入ってくるのだが、そちらには全然展開せず、健全でありがちな男と女のすれ違いという結末に落ち着くあたり、羊頭狗肉でがっかり感炸裂と感じる諸兄もおられるかもしれない。が、最後まで楽しく読ませてくれるところが、さすがの筆の力。

小野正嗣「獅子渡り鼻」は、日本の原風景、地域と血縁、そうした古典的なテーマをコンベンショナルな筆致で描く、いわば文学の王道をゆくような作。意地悪く言えば、最近の受賞作の傾向と対策を徹底的につきつめて受賞に最適化したような、いかにもな作品。格調高さを感じるものの、重くて硬くて長くて読むのが大変だったりするのだが、登場人物が滅法優しく、リアリティを失う直前寸止めの絶妙なバランスの暖かさを感じさせるところが、私は大好物なタイプと感じるのです。

 

こう書いてみると、ああ、やっぱり読めてないねえ、そう反省される。まあでも、こういうのも門前の小僧なんでしょ。読めないなりに読んでるうちに、だんだん読めるようになってくる、というような。ちょっと遅すぎた、ということかもしれないけど。直木賞のほうについては、明日の昼下がりあたり、受賞作発表直前にでも、また。

 

2012年7月11日 (水)

文学賞メッタ斬れ味悪し

ハイグレードなパソコン訪問サポートを提唱している典型的理系の私でも、芥川賞の候補作は全作読むようにしている。

全部読めば、だいたい、今回はこれかな、そう想像はつく。

そして大体当たるものだ。

だけど今回については、これだという作が思い浮かばない。

どうしたことだろう。高度な接戦というよりは、どんぐりの背比べに見える。あんまり面白くない、総じて。私の感性が、枯れた、そういう個人の問題なのだろうか。選考に漏れたけれどすごい、そういう作品はなかったのだろうか。文芸雑誌を日頃読む習慣のない私には、判断することができない。

前回の、道化師の蝶。超難解でしかし美しいことこのうえない作。対称的に、暗くて汚くて腐臭漂う強烈な、共喰い。そういう、わくわくどきどきさせてくれる作があれば、こちらも意地になって何度も読んで、調べて、食いついてゆくのだが。時間の流れがシンプルでない「ギッちょん」にしても、もういちど読み返そうという意欲が湧いてこない。

ビブリアとか、真夜中のパン屋さんとか、わかりやすくて読みやすい作品を愛好するようになったせいだろうか。

男の腹の中の河童が「伝染」する話は面白いけど、鈴木光司「エス」を読んだ後だと、ああそれ系の話ねと、スケール感で比較した挙句に落語のネタみたいな受け取り方をしてしまう。壊れた家族の古き良き想い出の潰れたバブリーホテル訪問の話「冥土めぐり」は確かに印象的で、この「冥土めぐり」が選ばれるならイベントとしては玉虫色の展開なのだろうけれど、新人の登竜門と呼ぶには鹿島田さんはすでに高名でして、本作もすでに単行本として出版決定という不都合な現実がありますな。

三浦半島の付け根から飛んで行ってみなとみらいの観覧車に、というくだりがチープでないと感じない、気にならないのなら、本来本命であるはずの常連さんのあの著者さんの「ひっ」もいいのだろうけど。

でも、今年半年で、本当にこれだけなのでしょうか。疑問を感じます。個人的には、該当作無し、そう考えます。

一方、直木賞ですが、これは楽園のカンヴァスでしょう。今年上半期を代表する傑作と(私が)考える本作を候補作とする以上、これを選ばないことはありえない。選ばない気なら、ゴールデンスランバーのように候補作としなければいい。

原田マハさんの最新作「旅屋おかえり」を読んだけど、あれまあ、普通の読み物だなあと肩透かしみたいに感じたところから、定常的にすごい作品を書く書き手さんというよりは、楽園のカンヴァスが奇跡的に生まれた代表作、本年を飾るマスターピースということなのだろうなと考える次第です。すでに山本周五郎賞が与えられ、べらぼうに売れている作品に、直木賞を与える必然性は無いのでは、という疑問をいだくなかれ。直木賞も足の裏の飯粒、取っても食えないけど、取らないと気持ち悪い、そういう代物ということなのでしょう。

なお、直木賞候補のなかで、盤上の夜だけ、まだ読んでません。また、辻村深月さんはすでに直木賞に相応しい作品を発表してきていますが、「鍵のない夢を見る」はいいといえばいいのですが、その代表作と呼ぶには物足りないと思います。また、これはひとえに私の趣味の問題ですが、貫井さんの作は、本作に限り、逆方向に読むという失礼をいたしました。申し訳ありません。いつもはそんなことありません。朝井さんの作は、デビュー以来全部読んでますが、途中から斜めに読んでしまうことがあって、正しく判断できませんこと、お詫び申し上げます。

最近、本屋大賞の、有名著者さん依存の傾向について苦言を呈する記事を読んだ。三浦しをん「船を編む」は受賞に相応しいと思ったけど、確かに言われてみれば、別にこんなビッグネームをあえて選ばなくても、もっと無名の、本屋大賞によって発掘される書き手を選べていいのにな、そう思ったものである。

方や、直木賞や芥川賞が出版業界の選定による、出版業界の賞であるのに対し、本屋大賞が本屋さんという売り手の選ぶ賞である。最終的に、消費者たる読み手が選ぶ賞が欠落している、この事実を痛感することになる。

アマゾンの書評がステマの舞台であることが指摘される昨今、やはり、消費者が選ぶ文学賞は何らかの形で望まれるべきものであり、その一つの形として、AKB的な総選挙があることは間違いない。本を千冊買ったら、千人分の投票権があるという、あの方式である。

おもに図書館で借りて読んでる私には、全然投票権は無い。あたりまえだ。

そういう、私のような人のためには、個人認証をしっかりやる、一人一票の投票によるリーダーズ大賞のようなものがあってもよい。書き手さんとしては、AKB的な賞のほうが生活に直結するから信憑性はあるだろうけど。

パソコントラブル?

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