商売道を究める

2012年1月16日 (月)

さてこそ時代はやさしさを求めている、とはいえ

パソコンサポートという商売について。

手に職、みたいな技術系のお仕事と思ってらっしゃる方は少なくない。が、ビジネスとして成立するか否か、その半分は接客業としての価値で決まる。

黙々とトラブルシュート、結果だけを求められる場合もあれば、パソコンの使い方などに関するお客様の相談にお応えしたり、世間話をしながら手を動かすことも多い。

そして文藝を愛好されるお客様のお宅では、この時期、芥川賞や直木賞が話題になることもある。

あの受賞作は読んだかとか、そういう話に止めておけばよいものを、口がすべった、ということになるのだが、実は候補作は全部目を通すことにしてまして、なんて言ってしまってから、なんやそんな暇なんかいなと思われたか、ある種の自慢に聞こえてしまったか、そのお客様からはその後しばらくお呼びがかからない、なんてこともあった。

だが、この際だからカミングアウトしておくのも悪くない。

候補作は、読むようにしている。

明日選考結果が発表される第146回についても、芥川賞候補5作と、直木賞6作のうち恩田陸「夢違」と真山仁「コラプティオ」が既読で、残り4作も来月中には読むつもりだ。

自称恩田陸ファンたる自分としては「夢違」に受賞して欲しいが、恩田作品のなかでも出来が良いとは言えない部類であろう「夢違」では、受賞するのも奇跡の部類か。長いなが~いぐだぐだの中盤のまま最後までお付き合いさせといて、フィニッシュだけスマートに簡潔に決めすぎ、ぺたって貼ったようなエピローグって、どうなのだろうか。

片やタイムリーすぎる「コラプティオ」。暇つぶしにさらりと読むには面白いが、時代を語るかのように順調に生産され、時とともに急速に順調に色褪せてゆく大量消費型作品のような気がしないでもない。これを代表作とされたら真山仁さんも不本意ではなかろうか、と。

さて、芥川賞は円城塔「道化師の蝶」を推したいが、そうはならないだろう。

芥川賞にしろ直木賞にしろ、候補作にノミネートさえしてくれれば、私はその作品に出会うことができる。だから、この賞の存在に感謝する気持ちの大部分は、ノミネートの段階に向けられる。どの作品が受賞するかは実はあまり興味が無い。受賞作の選考は、文壇の重鎮の先生方によるパフォーマンスの場であり、お祭りとして楽しむべきなのであって、マジな顔してそりゃおかしいだろうと年に2回も怒るなんて、風物詩にせよ、いささか疲れるのだ。

バカみたいな作品ばっかりだ、石原選考委員はそうコメントしたと伝えられる。

実際に読んでみれば、バカみたいという言葉でひと括りにできるわけがないことはすぐわかる。バカみたいは、後述するように、時代の空気への過剰反応を危惧するレトリックではないか。私にとっては、純文学とカテゴライズされる作品はかくも多様であったかと再認識させてくれる機会となった。

広小路尚祈「まちなか」は、他の作品であれば「ムダ」として削ぎ落とされる会話と心模様のヒダひだまでご丁寧に全部書いてしまうところから強烈な魅力が生まれていると感じる。夜中に布団の中で読んでてゲラゲラと笑い出してしまう。それも何度も。これをバカといえばバカと言えなくも無いが、それまで捨ててた内臓をホルモンだとかモツ鍋といった美味しい料理のカテゴリにまで育てた慧眼、江戸時代には猫もまたいだ脂身をトロとして最高価格の料理にでっちあげてしまう気合。いやちょっと違うか。いずれにせよ新しいと感じさせるナニカがある良作と考える。

円城塔「道化師の蝶」を私が何度読んでもよくわからないと感じるのは、抽象画を子供が見てちんぷんかんぷんという状況に似ているのだろう。難解このうえない喩え話の集成であろうこの作品が、それでもすこぶる面白いと感じるのは、わけのわからないものが好きという私の嗜好のゆえだけではなく、ちりばめられた断片的ウィットがそれなりに理解できて雲間に青空を垣間見せてくれるかのように脳内の御褒美になっているからだろうと思う。解読の助けを得ようとネットで検索してみつけたウラジーミル・ナボコフの研究者さんの解説、これによって最後の部分の理解が少し進んだ。こういう決定的ヒントがあっても全体を俯瞰することが困難というのに、ヒント無しの無手勝流で読み解くことなど不可能だろう。作中作『猫の下で読むに限る』で示唆されるように短時間で読んで深堀りできない前後2頁しか記憶できない超劣悪TPO下でも十分に楽しめる作品となっているから心配はいらない。吸血鬼を倒す銀の弾丸ならぬ、着想という蝶をつかまえるための銀の糸の網とは美しい。全体を俯瞰しても謎は解けないし、謎を解く楽しみが想定されているわけでもない。作中作で作品が始まるなど構成もややこしいこと。これが、遊び、ということなのだろう。パターンの遊びだ。文と数式と幾何模様と編み物と、さらに建造物やきっと音楽まで含意されてて。そう、パターンがキーワードだ。明らかに理系の、コンピュータ・リングイスティックスあたりの素養を強く感じさせるスタイルとコンテンツ。Wikiで経歴を見てみればやはりというか、理学部物理学科というハードサイエンスのご出身で、しばらくウェブエンジニアをされていたという、なるほど納得のバックグラウンド。前作「これはペンです」の文の自動生成のくだり、将棋の名人がコンピュータプログラムに負ける時代であればこそ、文壇への挑戦とも揶揄とも受け取られかねなかったかもしれない。対する本作は、とえいあえず当たり障り無いテーマを装いながらも書き手と読み手の追跡劇など合い通じる空気感もある。さらに安部公房作品に通じる面白さを感じると言ってしまっては、「あれれこの人全然読めてないよ」と露見することになるかも。確かにね、読めてる気はしません。

石田千「きなりの雲」は、文体ではなくてコンテンツがいい。ややこしい男女の機微を女性の感性からほっこり描く。のめりこみ感情移入してなんぼの作品であって、他の種類の人になりきって共感することが好きでない人できない人が読んでも面白くもなんともないだろう。バカみたいといえないこともないというのも、そういう意味で理解できる。

吉井磨弥「七月のばか」は序盤から想像もできない特殊業界インサイドストーリー。女の人生いろいろの群像モノを男の視点オトコの感性で描いていて、最後にちょっとしたカタルシスも用意されてて、娯楽として読み物として候補作中で一番楽しめたと思う。純文学なのだろうかと野暮な質問をするなら、スタイルに新しいところは無いと思うし、むしろ直木賞の俎に載せられるべきなのかもしれないが、ポイントは雑誌「文學界」に掲載され単行本になってないというところか。純文学と大衆小説をキッチリ区別することに特段の価値があるとも感じられないところ。

田中慎弥「共喰い」は男と女のエログロと父と子の血の狂気。不衛生と腐臭と塵芥にまみれた獣たる人間の本来の姿、か。ドメスティックで、昭和の終わりという意外に新しい時代のしかし古色蒼然の空気感。どろどろすぎて読んでると嫌になってくる人もおられよう。私は途中から斜めに目を動かす誘惑に負けた。だけど、これが今回146回芥川賞の本命だ、たぶん。新喜楽の宴席で文壇の先生方のツマミとするに十分な毒を含んだ作品は他に見当たらない。

時代はやさしさを求めている。これは、作家として知られるお客様から示唆いただいた言葉だ。文藝作品でも難解なものが好まれる時代ではなく、候補作も「道化師の蝶」を除き比較的平易なものが揃ったと思う。バカみたいな作品ばっかりだというコメントのは、この側面を捉えたのだと考えることもできる。出版業界もさることながら、今や、表現に関するものはあまねく、やさしさが求められるのだろう。たとえば、広告宣伝を必要とするあらゆる業種において、コピーはやさしく、優しく、易しく。テレビCMでもダイワニャンやダイワワンのほうがダイワマンより親しみやすく、その可笑しさもわかりやすい。

だけど、である。やさしくヒューマンインタフェースを整えることで、コンテンツの価値を減じてよいというわけでもない。フロンティアはフロンティアでいい。ナボコフって誰、っていう私のような人に完全に理解できる形で道化師の蝶をリライトする必要など無いこともきっと間違いないのだ。文学賞は時代に媚びる必要は無い。

さて、機械もヒューマンフレンドリに。ガジェットはやさしく、ディバイドを作らないように。これを突き詰めてしかし平易にし切れない最後のギャップを埋める、これがパソコンサポートという商売のミッションだ。露骨に我田引水で恐縮だが、弊方ブランド名にもその「やさしさ」の狙いを込めている。機会あればぜひ一度パソコン出張サポートを活用いただき利便性を体感いただければ幸甚であると、ぺたっと貼ったようなエピローグ風の一文で、強引に、長くなりすぎ駄文となり果ててしまったこの記事を結ぶこととしたい。

パソコントラブル?

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