ああ、学生時代に、世界史とか、世界地理とか、もっと勉強しておけばよかった。本を読むにも、海外旅行に行くにも、異文化コミュニケーションを嗜むにも、その喜びも深かったろう。人生の分岐点でも、あるいは、より適切な意思決定ができたかもしれない。鉄は熱いうちに打て。もはや手遅れ。履修単位偽装があった、そういう話ではない。知れば知るほど、知らないことが多すぎる。そうとわかる、無知の知。しかしそれは、ある年齢を過ぎると苦痛なだけ。自己防衛と自己正当化。新しいものから目をそむけ、否定するための根拠を探す。原理主義。純粋さもバランスを欠けば頑迷さに通ずる。老害のはじまり。
さて、今年のノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムク氏。トルコから世界へ、国際的によく知られるようになったきっかけの作品、『わたしの名は「紅」』。作品の各章では、登場人物の一人にずっと語らせる。章のタイトルも、『わたしの名はオリーブ』のように、その人物が名乗る形。いや、人物以外にも、『わたしは馬』もあったし、木も蝶も、『わたしは犬』もあった。熊も一瞬出てきたけど、『ぼくはくま』♪、とはならなかった。
この本の原典はトルコ語であり、英訳版は名訳とされる。たしかに、名訳あって、欧米に知られるチャンスも生まれる。国際的知名度あってはじめて、ノーベル賞の候補にもなる。村上春樹氏の作品の英訳版はどうだったのだろう。海辺のカフカなんて、翻訳がすごく難しそうだが。外国文学の邦訳がありゃりゃの品質であることがアマゾンのカスタマーレビューに書かれる例もよく見る。品質は訳者次第。英訳がコケれば、本は国際的に知られず、ノーベル賞もやってこない。本作の英語版をAmazon.comのリーダーで覗くと、主人公「カラ」は「黒」の意味だそうだが、英訳版ではそのままBlackと表現される。じゃあ、日本訳でもと、「わたしの名はクロ」とか、あるいは安田大サーカス風に『クロちゃんで~す』とか、、、サマにならんわな。ちなみに英訳版でも、章のタイトルは「I am Red」とか、「I.Shekule」とか、やはり登場人物が名乗る形、中学一年英語教科書最初の構文で。
さて、トルコといえば、日本に好意的な国民感情をもってくれていると伝えられ、実際、中近東の有事の際に、在留邦人の国外脱出を助けていただいたエピソードが知られる。しかしながら、わが国の学校教育の場では西欧圏を重視するあまり、トルコの歴史や地理に十分な時間がさかれてきたとはいえないことは残念である。文学の紹介においても事情は似たようなもので、『トルコの有名な作家の名前を一人挙げよ』とクイズ番組で出題されたところで、沈黙で応えざるを得ない人が少なくなかろう。
また、わが国では、イスラム圏の人々の生活習慣もキリスト教のものほど知られていない。そのため、本作で描写されるエピソードはとても新鮮であって、しかしそれは正しい理解ができているか微妙ということをも意味する。さらに空間的なビジョンも、欧州からペルシャ、インド、あるいはシルクロードを経て中国へと至る広大なものである。そのほぼ中心を占めるオスマン帝国、その帝国が誇る細密画、そのピークから衰微へと向かう16世紀、スルタンおかかえの工房が舞台である。写本とくれば、仏典を想像し、宗教画とくれば、仏教画やらイコンから類推せざるをえない。オスマン帝国史上の有名人、逸話、こうなって来ると、もうお手上げだ。
そして残酷なことに、目を酷使する細密画師は歳を経て失明する。名誉ある失明と美化された。現代、パソコンと長時間睨めっこして目が霞むのとはわけが違うが、それでも霞むのが恐くなってくる。ああ、現代の細密画師。実際には加齢による白内障やら病理的なもので、治療法が無い当時は、ということだったのだろう。そういうことにしておこう。目の酷使には注意。
それにしても、観光地として歴史的世界遺産イスタンブールはとても魅力的。同じトルコの世界遺産カッパドキア周辺で邦人が交通事故に巻き込まれた残念なニュースも漏れ伝わって来て、邦人旅行者の数は増えていると察する。知識があればあるほど、旅行も楽しい。一度行ってみたい国。その前にオスマン帝国を中心に世界史の補習70時間、怠りなく。