最強の潜伏型生物兵器プリオンを、同盟国だろうとなんだろうと強硬に押し込んでくる『かの国』のやり方に辟易として、国粋極右勢力の側にいささか重心を移したくなってくるのは人情。だが、この書のようにあからさまに書いてしまうのは、勇気があると言うのか、はたまた、、、いずれにせよ著者の度胸をリスペクトすべきで、賛否はさておき、まず読んどけ、話はそれからだ、そういう本だと思う。
突然海外での「ガイジン」生活に放り込まれた日本人の典型的不適応反応が、
★1★ 日本人は最高の選ばれた民族イズムに逃避し、周囲を見なくなる。
★2★ 日本人は駄目ダメだけど、俺は国際人だからと、劣等感を転嫁する。
というのは昔からよく言われるね。だけど、欧米生活も豊富な国際派数学者様が、★1★みたいな御高説をのたまわれるのは、なぜか。駄目だダメだと言われ続けて最近は自信を失いかけている民、その心の隙に入り込む巧みな弁舌は、喪黒福造(笑うせーるすまん)のそれを思わせる。そしてその民の心の様は、右傾化してカギ十字の勃興を許した第一次大戦後の独逸に、よく似た香ばしさであったような。
もっとも、かの国を支配するネオコンとはこういう国粋極右勢力以外の何者でもないわけで。グローバリズムはかの国のプロパガンダ、かの国のナショナリズム、著者のかくいう言説も、あははは、そうだよねって、あえて口には出さないけど、よくぞ言ってくれた。毒をもって毒を制す、そういう主張とお見受けした。
他にも、『情緒』の位置づけについて、強く共感できる。情緒の共有、それが単一民族の(95%超がよく似たプロファイルをもつという)民を束ねてくることに役立ってきた。厳密な『ルール』を定めておく必要がなかった。定めるのは無粋と忌避された。代わりに、美学が暗黙の統制力だった。とすれば、この国は移民を受け入れる準備ができていない。『論理』を対話の土台とする習慣が無い。トフラーさんや大前さんの言う移民受け入れを進めても、特異であることに価値があった文化や環境をいたずらに破壊して民を不幸にするだけではないかと。こう考えてしまうあたり、自分もやっぱり偏狭なローカル人間かなと思うのではあるが。
一つ気になって読んでいたのだが、著者の他に、著者の主張を完全否定する存在を示唆して書かれている点。批判者は奥様だったりするが、実は冷静な『自分』、理性だったりするのではないか。とすれば、この書は、ディベート的な構図で向こう側に仮に設定された対抗意見の書。実はそんなことは考えてないが、論点を整理するために、わざわざ両極に置かれた極論。誰も書いてくれないから書いた。書くとすればそうなるという、批判されるための本。もしかしたら、そういう意図が当初はあったかもしれない。
だが、今や、藤原正彦といえば、国家の品格の人で、立派な和製ネオコンと思われているわけだ。本人が望むと望まざるとにかかわらず。