グローバルな内容ゆえに翻訳書を読む場合の懸念について
アルビン・トフラーの最新作、富の未来の上巻をやっと読み終わった。行間に考えることが多く、1頁進んで2頁戻る、水前寺清子の唄か、はたまたマイケルジャクソンのムーンウォークか、とにかくやたらと読むのに時間がかかる。
この状況じゃ、下巻を読み終わるときには、今考え感じたことなんて忘れちゃってるだろう、まあ、それはそれで、忘れる程度の内容だよな、ということだ。が、大事なことは全部覚えてるかと言うと、意識下の潜在野に見事落ちてしまうこともままあるわけで、記録しておくことにもそれなりの価値がある。
まず、翻訳の方針、これが一番よろしい方向であったのかということがある。日本を代表する翻訳家の一人の方の仕事であり、翻訳として完成度の高いことは疑念をはさむ余地も無い。なんだが、トフラーの翻訳として、これが一番親切な翻訳だったのだろうかという、そこはかとない、もやもやした後味のようなものが。
グローバルな内容だけに、ジャーゴンがきれいに日本語化されていると、逆に、英語の会話でも論評を読む場合でも、本当はトフラーの造語を想起すべきところを、対応する日本語の方しか知らないから、ぽかーん、という感じになる可能性もある。おまえ、トフラーも読んどらんのかと。
原書が手元に無いので、米国アマゾンでの書評などから原語を推察するのだが、例えば、ファンダメンタルズとか、テレビ東京WBS (ワールド・ビジネス・サテライト) で説明もなく普通に使われてしまう語を、「基礎的条件」という語で徹底するのがいいのか。もっとも、本題のdeep fundamentalsを「ディープなファンダメンタルズ」なんて訳したら、いかにも手抜きにみえちゃう、ということで、問題は簡単では無い。ジャーゴンだらけのトフラーだから起る問題、ということかもしれない。
プロシューマー。主要な語(造語)のひとつで、もはやヤフーの辞書にも載ってるぐらいだから、プロシューマーのままのほうがわかりやすい。
やはり、グローバルな内容のものは、苦労してでも原書で読め、ということなのだろう。原書が出て1年もしてから翻訳書を読んで文句をたれているようでは、お門違いのそしりは免れない。さらに考えると、国際社会とのリンク無しで生きられないわが国、その初等教育の場にあっても、原書を読む、そういう習慣をある程度早い時期に導入すべきではないか。ここらへんで、アジアのハングリーなライバル達にみすみす差をつけられているようでは、知恵が足りないと隣人からいつもの冷笑を買うだけだ。
富の未来の内容そのものについて考えたことは、別途、後日。でもやっぱり、第三の波みたいに、読んでないとそのうちどこかで何かを疑われる種類の本になるんじゃないかと感じた。それは、わが街と東隣の街の図書館が率先して同時にASAPで調達してくれた姿勢からも感じられる。「フラット化する世界」のほうは入って来る気配すら無いのだが。
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